HSS型HSPという特性をもつドクと申します。
僕はこの特性でずっと悩んできました。
HSPとは簡単に言うと「人の感情や物事に敏感すぎる人」のことを指します。僕は幼い頃から人の顔色を窺って生きてきたり、なんでこの人はこういう言い方をするんだろうと疑問をもって生きてきました。
いきなり「生きづらい世の中を変えたい!」と書いてあって驚かれた人もいるのではないでしょうか?私もいきなりこんなことが書いてあったら、なんだこいつと思うと思います(笑)
生きづらい世の中を変えたい。と声を大にして言っても、実際に変えることは難しいです。自分と似た境遇の人が少しでも、今より生きやすいと思えるような居場所が作れたらいいなと思って始めました。
そんな私の経歴や生い立ちも含めて興味を持っていただければ幸いです(*ノωノ)
生い立ち(簡単に)
2000年生まれのミレニアムベイビー👶22歳長男。北海道出身です。実家は畑作農家で、幼い頃から自然に囲まれてのびのびと暮らしていました。今は彼女と札幌で2人暮らしです!
父・母・僕・妹の4人家族で仲良し家族です😊
地元の小中高学校を卒業。多くの友達に恵まれました。
札幌の3年制の保育専門学校に入学。彼女と出会い3年付き合っています!
卒業後、2022年4月 認定こども園に就職。
人間関係が原因(1人の職員)でうつ病を発症。
2022年8月 退職。
たくさんの人に支えられ、うつ病を抜け出し、今は児童デイサービスで働いています。
簡単に書きすぎましたが、生い立ちはこんな感じです。
なぜ保育士になったのか?
僕の実家が畑作農家なので、親戚の人や知り合いから「農家継ぐんでしょ?」とたくさん言われてきました。
実際僕も将来は「農家を継ぐんだなぁ・・・」と小中学生ながらに将来の夢を考えたり、決めたりする授業の時に考えていました。もちろん親にはずっと伝えていて嬉しいと言ってくれていました。
しかし、転機が訪れます。
それは高校に入学したての頃、進路希望調査を父親に見せた時に言われました。
「今まできちんと話していなかったけど、お前に農家はまだ早い。機械や畑の借金もあるし、それを背負ってまでやらせたくない。でも、本当にやりたいと思っているのなら一度社会を見てから決めろ。そして、覚悟ができたならやれ。」
と、まさに雷に打たれたような気分でした。
憧れの父の背中を追い求めて過ごしてきたのに、いきなりそんなこと言われてもと思っていました。
ですが、これが私を大きく変えました。
今までは誰かの理想だったり、昔からの習わしのようなもので自分の道はこうなんだと思っていましたが、初めて自分で本当にやりたいことを考えていくことで本当に好きなことは何かを考えることができました。
そこで出会ったのが保育士です。昔からお世話をするのが好きだったり、小さい子と遊ぶことが多くありました。
一番の大きなきっかけは、中学校の授業で保育園児たちを学校に招き、一緒に遊ぶという授業がありました。その時の、キラキラしていて楽しそうな子ども達を見て
「子ども達と一緒に遊んで成長できる保育士っていいな」と思い、保育士を目指しました。
保育士になってから
2022年4月 認定こども園に就職しました。この園は職員が皆優しく、仕事は大変だけど笑顔の絶えない園でした。そこに闇があるとは知らず・・・。
5人担任制で2歳児を担任していた僕は、新人ながらも一生懸命働いていました。わからないことは積極的に聞き、率先して仕事行うなど、今思えばオーバーワークですが、がむしゃらに頑張っていました。
その中に目つきの怖い職員がいました。僕より2年上の先輩です。このご時世なのでマスクをしており、そういう目つきなんだろうなと思って気にしないようにしていました。
1か月2か月3か月と時間が過ぎ、段々とその職員が私に対して嫌がらせのようなことをするようになりました。
保育中に
ずっと監視
教えられていない仕事を頼まれ、やり方を聞いたら怒られる
小さな失敗でも目の前でため息をつかれる
勤務時間後に仕事を押し付けられる
突き放すように冷たい言動
など言えばきりがないほど多くのことをされました。
僕にだけならまだいいのですが、子ども達にも虐待のようなことを
言葉も覚えたばかりの子に泣いている理由を口で言えるまで怒り続ける
障がいの疑いがある子が行ってはいけない場所に行ってしまったのを見つけ、思いっきり地面に叩きつける
できる子できない子で明らかに態度が違う
自分の機嫌で態度が変わる
するなど保育士としてというか人としていかがなものかということを散々されてきました。
これを4か月間ずっと受けてみてください。希望をもって保育の道に進んだのに、1人の顔色を窺って怯えながら仕事をする。こんな現実が待っていました。
園長や副園長、主任、同じクラスの担任に話しました。みんな「気にしないほうがいい。」と励ましてくれ、たくさんの人が味方になってくれて頑張ろうと思えましたが、
現実は無情なもので心と体はどんどん落ちていきました。
どん底保育士生活
華やかだった理想の保育士生活とは真逆のどん底保育士生活が始まります。
- ご飯を食べると気持ちが悪くなる
- 日常生活でも監視されている感じがする
- 何をやっても楽しくないし、何もやる気が起きない
- 上手に笑えない
- 意味もないのに涙が出てくる
- このまま車であの木に突っ込んでしまえば、楽になれる…という希死念慮がずっとある
- 夢の中でもその職員に監視され、怒られる悪夢で起きてしまい十分に睡眠がとれない
- 10分前に話したことが思い出せない
明らかにおかしい言動や行動が目立つようになり心療内科を受診し
そこで「うつ病」と診断されました。
この時僕はただただ悔しくて、弱くて情けない自分に生きている価値を見出そうにも見出すことができませんでした。
この診断結果を園長、副園長に相談すると快く休職を受け入れてくれましたが、当時の僕はその優しさにすら罪悪感を覚え、心をむしばんでいきました。
ドク保育士やめるってよ
休職期間中に園長と食事に行き、話を聞いてもらい励ましてもらって、また頑張ろうと思っていました。
休職期間(2週間)を経て、心が以前よりも楽になり職場に復帰しました。
職員のみんなは「おかえり~!」「心配したんだよ~。」「少しずつやっていこうね!」と優しい声をかけてくれて泣きそうになりましたが、グッと堪えて笑顔で「ありがとうございます!」と返事をしました。
子ども達も「どこに遊びに行ってたの~?」「一緒に遊ぼう!」と元気に声をかけてくれてまた泣きそうになりましたが、何も知らない子ども達に涙は見せられないので我慢しました。
しかし、その職員の足音が迫ってくると(そんなに大きくはないです笑)
動悸が激しくなり、息が苦しくなりました。
そのタイミングで朝の読み聞かせタイムが始まりました。
朝の読み聞かせは誰が読むという決まりはなく、その時に手の空いている職員が読むことになっていました。
たまたま手の空いていた僕が本当は読むべきだったのですが、
そんな状態なので近くにいた同じ担任の職員にお願いし、変わってもらいました。
すると「なんで読まないの?」と言われました。僕は今の様子を説明したのですが
「園長に読んじゃダメとか言われてんの?ちょっと確認してくるから」と言って園長に内線で確認しに行きました。
もちろんそんなことは園長は言っていないし、何が起きているのかも知らないので「言ってないよ」と園長は答えました。
「言ってないみたいだから変わって読みな。できるんでしょ?」と嗤いながら言われました。
そこで頑張ろうと思っていた糸はプツンと切れました。
「こいつのいる職場にいたら本当に自分がダメになってしまう。」
心の中でそう思いました。すぐに園長のもとへ行き、もうダメだということを伝えました。
その日は早退し、次の日正式に退職することを決めました。
こども園を辞めた後の話
退職を決意し、いざ退職をしてみると心の中からスッと何かが消えたような感覚になりました。
その何かとは、あの忌々しい職員からの目と、居場所です。
もちろん、職員からの目は嬉しかったですが、所属してお金を稼ぐという居場所を失いました。
というのも、こども園が嫌だったのではなくその人1人が嫌だったので、辞めたくはありませんでした。
そして、とても居心地の良い園でしたので、離れたくはありませんでした。
今考えれば「居場所なんて探せばどこにでもある。」と思えますが、その当時の僕にとっては大きなものを失った気分でした。
- お金がない
- 居場所がない
- 彼女がいるけど支えられる力がない
- 親に迷惑をかけてしまう
- 世間体が怖い
など様々な要因が一気に襲い掛かってきました。
この時
「もう生きる意味なんてない・・・」
と強く思ったことを、今でも鮮明に覚えています。
辞めれば絶対に良くなる。
そう思っていた自分とは裏腹に残酷な現実が待っていました。
大きな第2波襲来
残酷な現実に打ちひしがれながらも、どうにか生きていました。
ここで、実家に帰る決断をします。
家族には退職以前から話をしていて、退職後も今後のことについてなど話していました。
一度帰れば考えが変わるかもしれないし、何より暮らしの安定性が増すと思いました。
彼女を札幌に残し、帰るのはためらいましたが、今の状況をどうにかしたい一心で決断しました。
実家に帰ると家族は温かく迎えてくれました。
久しぶりに会う家族のぬくもりにありがたさを感じると同時に、こんな人でごめんという申し訳なさが強くありました。
実家に帰って初日。
僕は遺書を書き残していました。
遺書
父・母・妹・彼女・今まで関わった全ての人に向けてそれぞれの思いを書き記していました。
最後にきちんと家族に顔を見せないで別れるのは、自分の中で嫌で、最後の記憶が僕の笑った顔でお別れしたいという気持ちがそうさせました。
泣きながら、過去の思い出やこれから一緒にやりたかったこと、
「こんな別れ方でごめん」というお別れの言葉を添えて書き記しました。
その時の気持ちは、とにかく消えたい、死ぬのは怖いけど存在が消えてしまいたいと思っていました。
ですが、この遺書が自分の気持ちを整理させて、
本当に自分が何を思っているのか、何をしたかったのかを理解させることにつながりました。
前に向かって
遺書を書いた次の日。
僕は実家の畑仕事を手伝っていました。
遺書を書いたことで、完全に気持ちが切り替わったわけではありません。
まだ不安定な状態ですが、体を動かしている間は考えることを少し休むことができました。
体調の良いときは仕事を手伝い、体調が悪いときは休む。
これでいいんだ。と思ってしばらく実家にいました。
転機
しばらく実家で過ごして、このまま地元に戻ろうと決意しました。
地元に残ることになると、札幌にある家を片付けなければいけないので、僕は一度札幌に戻りました。
札幌に戻ると、地元の空気とは違い、皆忙しい毎日を過ごしているように思えました。
以前から札幌は皆忙しそうで焦らされるなと思っていて、そんな空気が僕は苦手で居心地が悪いなと思っていました。
そんな苦手な空気が僕を大きく変えさせてくれました。
「今の自分には何ができるんだろう。」
札幌で過ごしていく中で毎日こう考えていました。
「誰かのために生きたい。」
抽象的で曖昧な考えを持っていた私ですが、誰かとは何か深く考えると、以前から興味があった
障がいや虐待など生きづらさを持っている子ども達の生活を支えたいという思いがありました。
子ども達の生活を支えたいと思っていても、自分自身の体調を整えなければいけません。
そこで、今までお世話になってきた学校の先生や同じ保育の資格を持つ友達、元バイト先の先輩など
たくさんの人と会って自分が本当にこの道に進んでいいのか、実際に起きたことをありのまま話してメンタルケアもしてもらいました。
暗い話になってしまうので、話すことはとても勇気がいりました。
こんな話をして、相手が暗くなってしまったらどうしよう、
どうしようもない話をして気を使わせてしまったらどうしようと考えていましたが、
みんな快く僕を受け入れてくれて、親身になって話を聞いてくれました。
この経験が、僕の人生を大きく変えてくれました。
児童デイサービスとの出会い
自信を取り戻しつつあった僕は、札幌の保育園の求人を探していました。
求人サイトに登録して数日がたった頃、1本の電話が鳴りました。
男性保育士求人サイトからの電話でした。
とても親身になってお話を聞いてくれて、こんなに優しい人はいるのかと思うほど、よくしてくれました。
求人サイトに紹介していただいて、出会ったのが今の障がい児や虐待などの経験のある子ども達の通所施設児童デイサービスです。
今では優しい職員とかわいい子ども達に子ども達に囲まれ楽しく仕事をしています。
完結
長くなってしまいましたが、僕のプロフィールはこんな感じです。
みんな一つの人生。それぞれの個性があって、それぞれのエピソードがあります。
僕は、その中の一つです。そして、皆さんもその中の一つです
自分一人しか生きられない人生を、一緒に前に向かって進んでいけたらいいなと思います。
このブログを見て、生きづらいなと思う人が少しでも減ってくれればいいなと思います。
このブログを書く目標
初めにも書きましたが、僕は生きづらい世の中を変えたい。
生きづらい世の中を変えたい。と声を大にして言っても、実際に変えることは難しいです。
自分と似た境遇の人が少しでも、今より生きやすいと思えるような居場所が作れたらいいなと思って始めました。
僕は自分に起きたことをそのまま書き記しました。書き記したことは、HSPでなくても苦しいことだと思います。
そして、「気にしないほうがいい。」という言葉はHSPにとってはとても難しく、困難なことです。普通の人なら気にしないで過ごせるのかもしれません。
それができないから苦しいのです。
「気になってしまう」これはHSPの強さでもあり弱さでもあります。
この気になってしまう基準は、その人によって違います。でも、その基準に間違いはありません。
だってそれがあなたなんだから。
そんなあなたに寄り添うブログでありたいなと思います。